【明石家さんま】【ビートたけし】【タモリ】参考になる人生観

心構え・役割

こんにちは!北の熱い講師オッケーです!

今日は、ふざけているようで、真面目な話です。

日本のお笑いBIG3

1970年代後半から現在まで芸能界の第一線で活躍を続けている国民的お笑いスタービートたけし・タモリ・明石家さんまが日本のお笑いBIG3に称されますね。

先ずは、お三人を簡単にご紹介しますね。

明石家さんま(あかしや さんま)経歴

本名:杉本高文(すぎもと たかふみ)
生年月日:1955年7月1日
出身:和歌山県東牟婁郡串本町生まれ、奈良県奈良市育ち。
教師の薦めで私立東大寺学園中学校を受験したが不合格となり、
その後奈良市立三笠中学校に進学しています。
奈良商業高校時代教師に「杉本、おまえ、吉本入れ」と言われたのが、きっかけと本人が伝えています。
吉本興業所属は有名な話ですね。
実母は三歳のときに病死・火事が原因で弟(当時19歳)が他界。
お兄様は奈良市で『カラオケさんま』を経営しているとか(確証なし)。

元々は落語家を志して2代目笑福亭松之助の弟子となり「笑福亭さんま」という芸名でデビューするが、師匠の推薦でお笑いタレントに転向しています。

若手人気時代の話です。
大阪と東京を週に何往復もしていて、月曜日には『MBSヤングタウン』出演のため、伊丹行きの日本航空123便にも搭乗していたが、1985年7月より『さんまの駐在さん』の収録が火曜日から月曜日になったことから移動日が日曜日となり、1985年8月12日(月曜日)の伊丹行き日本航空123便による墜落事故を免れたという経験があります。

同日放送の「ヤングタウン」では、「いつも使ってる便やから…」とショックを隠せず、この経験を機に東京・大阪間の移動など新幹線で行ける場所へは飛行機ではなく新幹線を利用するようになったと言われています。

また、この経験から生まれたさんまの座右の銘が「生きてるだけで丸儲け」であり、娘IMALUの名前の由来になっているとのことです。
また、「笑顔のまんま」の歌詞にもこの言葉が使われていますね。

明石家さんま「名言」

落ち込まへん、それはお前らが過信しすぎや。
自分がもっとできると思うから落ち込む。
何があってもこんなもんやと思っているから落ち込まない。

天才が努力したら、これはもう鬼に金棒ですけど、
凡人が努力したかて、その努力に敬意は表するとしても、
勝ち負けは『努力』の要素だけで左右されるほど甘いもんやない思うんですわ。
特に超一流の世界ではね。

人はないものに憧れる。

(タモリさんんついて)あのドライさは凄い。我々のようなお笑い芸人からすると信じられない切り替えの早さ。
タモリさんは演芸場にも出てらっしゃらないし、そういう意味では畑違いのところがありますから。
普通、前のコーナーがウケないと我々お笑い芸人は引きずるんですよ。
次のコーナーに入った時も汗かいて、「あかんかったなー」って取り返そうとするんですけど、タモリさんは取り返そうとしない。
あのドライさは凄い。
あの人しか「いいとも!」はできないと思います。
あの切り替えの早さと引きずらない凄さ。
でも……俺は引きずりたい。

タモリ経歴

本名: 森田一義(もりたかずよし)

生年月日:1945年8月22日(太平洋戦争終戦から一週間後)
出身:福岡県福岡市出身。
本名の「一義」は、祖父が尊敬していたという政治家・田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたものだと言われる。
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学し、剣道部と吹奏楽部を両立してトランペットを担当していた。

高校卒業後、1年間の浪人生活を送る。
大学浪人中はしばしば押入れに篭り、中国や韓国からのラジオ放送を長時間聴いていたことが、「4か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながったとのこと。
無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、
1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学する。

その後、赤塚不二夫宅での居候生活が始まることとなります。
さらに、赤塚から月に20〜30万円の小遣いが渡され、新宿の飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎしながらネタを作る日々を送ることとなる。

所属する芸能事務所は田辺エージェンシー。

2016年12月19日、『SMAP×SMAP』内企画『ビストロSMAP』の最終回に、最後のゲストとして出演しています。

タモリ「名言」

ストレスはね発散することはできません。溜まる一方だからストレスを忘れるしかない。

仕事も何でも「反省はしない」「反省ばかりしてるとバカバカしくてこれから先、やっていけない」「過去を振り返らない」。

人間って『自分がいかに下らない人間か』ということを思い知ることで、スーッと楽にもなれるんじゃないかな。

明日のことを語れるヤツはゴマンといるが、昨日までのことをキチっとやれるヤツはほとんどいないんだよ。

ビートたけし経歴

本名は北野 武(きたの たけし)

生年月日:1947年1月18日 東京都足立区出身。
東京都立足立高等学校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学した。同級生には星野仙一がいる。
明治大学名誉教授・工学博士でタレントでもある北野大は実兄。

フジテレビアナウンサーであった逸見政孝氏とも親交が深く、その後の逸見家との交流も深い。
逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。

横山やすしを大変尊敬し、葬儀の時には駆けつけた時には、「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメント。

ビートたけし「名言」

人生で楽しいことばかりじゃない。苦しいと思うことも生きている証だと思えば楽しめる。

必死にやってもうまくいくとは限らなくてどうにもならないこともある。それが普通で当たり前だってことの方を教えるのが教育だろう。

今の社会は、人生とは何かとか、人間の生きる意味は何かみたいなことを言い過ぎる。
若い人には、それが強迫観念になっている。
何かとそういうことを言う大人が悪いのだ。
自分たちだって、生きることと死ぬことの意味なんか絶対にわかってないくせに。

成功の秘訣は、いちばんなりたいものじゃなくて、その人にとっては二番目か三番目の、違う仕事に就くこと。
自分にはもっとやりたいことがあるんだけど、今すぐにそれをできる能力はないから違うことをやってます。
それぐらい自分を客観的に見られるやつのほうが、成功する可能性は高い。

へりくだった心をもって互いに相手を自分より優れた者としなさい。

著書『コマネチ!』での中で、「TVをやっていて本番中に何人かこいつには負けたと思う奴がいる。その何人かの代表はこいつ(明石家さんま)です。」と記しています。

「2014年3月の『笑っていいとも!』の最終回、テレフォンショッキングの最後のゲストとして登場。
4分間、ギャグ満載の表彰状を読み上げ、タモリの32年間の労をねぎらいました。
同年2月に行われた、自らが審査委員長を務める〈第14回ビートたけしのエンターテインメント賞〉でも、タモリに特別賞を贈呈し“(32年間)よくやりました!”と激賞。
受賞の感想をVTRで寄せたタモリも“たけちゃんに褒められるというのは、本当にうれしい”とコメント。

3人の共通項

この春のテレビ改編で出演終了の番組がありそうですが、タモリ、たけし、さんまの共通項は、彼らが日本のお笑い界で非常に影響力のある存在であること、そして彼らが「お笑いビッグ3」と、今でも呼ばれていることです。

彼らは1980年代初頭に巻き起こった「漫才ブーム」の中でシンボル的な存在として人気を集めました。

歌手の和田アキ子氏によれば、彼らの共通点は「本が好きなこと」で、特にタモリの楽屋は2畳ほどで、そのうちの1畳ほどは本棚だったと言われています。

これらの情報から、
「彼らは知識を深めることに熱心で、その知識を自分たちの芸に生かしている。」
と言えるでしょう。

それぞれが独自のスタイルと個性を持ちつつも、彼らの影響力と知識欲は日本のお笑い界を牽引してきた要素の一つと言えます。

最後に、もう一言。
お三人の名言・コメントから、共通して言えること。

『努力という言葉が嫌いである。「努力をしている」と人前で言うことではなく、黙って日々研鑽することである。自分は何様だ!と思うことだ。』

テレビの前のコメント・話し方はさておいて、
考え方として「いつも謙虚である」ということなんだと感じています。

確かに、お三人は、いつも、ある意味、
冷静であり、偉ぶることなく、客観的に自分を観ていますね。

ビジネスでも、通じることと思います。

今日を大切に明るく元気に行きましょう!

3連休です!天皇誕生日ので祝日です!

札幌は、「大雪警報」です!






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