こんちは!北の熱い講師オッケーです!
毎年、8月になると話題になる話です。
「第二次世界大戦」「太平洋戦争」
鹿児島県知覧の特攻の基地近くで「富屋食堂」で特攻隊員の「おかあさん」と慕われた女性鳥濱トメさんのお話です。
鳥濱さんの店「富屋食堂」とは

「富屋食堂」が開業したのは昭和4年のこと、太平洋戦争末期には帝国陸軍の指定食堂となります。
たくさんの特攻隊員が訪れるようになりました。
「富屋食堂」を切り盛りしていた鳥濵さんは、そんな隊員たちを我が子のようにかわいがり、家財を投げ打ってもてなします。
いつしか隊員さんたちは、トメさんのことを「おかあさん」と呼ぶようになりました。
しかし、その関係が深かった分、トメさんは悲しい現実をたくさん目の当たりにすることになるのです。
鳥濵トメさんは、明治35年鹿児島県坊津町という小さな港町で生まれ、
とても貧しい家だったそうで、小学校に通うことができずにトメさんはある時期まで「字の読み書きができなかった」という話です。
そんなトメさんに字を教えたのが夫の義勇さんでトメさんは夫の義勇さんのことを心から尊敬していて、夫のことを「トリさん、トリさん」と呼んでいたそうです。
とても仲のいい夫婦だった二人の結婚には大変な障害、なにせ昔の日本のことで貧しい家の出のトメさんとは「家柄に格差がありすぎる」という理由で、それはそれは大反対されたということです。
もちろんトメさんも、そのことを承知していて二人で暮らすようになっても、トメさんは義勇さんの稼ぎは本家に送金し、自らの生計は魚行商を営み、身を粉にして働きました。
やがて、昭和4年、知覧の町に「富屋食堂」を開くことができるようになりました。
若いころのトメさんは、大変美人だったんだそうです。
夫の義勇さんも美男子で、二人が連れ添って歩くとちょっといい感じで、皆が振り返るくらいだったそうです。
昭和4年に開業した「富屋食堂」は、うどんやそば、丼物、夏にはかき氷などを出す普通の食堂でしたが昭和16年に知覧飛行場が完成してから、少しずつ時代の波に巻き込まれていくことになります。
「知覧」の特質
知覧は小さな町ですから「富屋食堂」はすぐに「軍の指定食堂」になりました。
「富屋食堂」は多くの兵隊が訪れ大変なにぎわいで、それはトメさんの優しい人柄、どんな人に対しても決して分け隔てしないところが若い兵隊さんの心を和ませたのでしょう。
最初は「おばさん」と呼ばれていたトメさんが、だんだん「お母さん」と呼ばれるようになったという話で、兵隊さんはみんなトメさんに会いたくて食堂に来ていました。

神風特別攻撃隊
昭和19年、ついに「神風特別攻撃隊」が編成されることになります。
悲しいことに知覧飛行場は、その出撃地として選ばれてしまいます。
2007年初夏に、石原慎太郎さんの脚本のもと映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』が製作されました。
記録して、1036名の若い隊員の命が特攻で消えました。
トメさんが始めた「富屋旅館」
戦後、トメさんは「お国のために散っていった」特攻隊員を供養するために、草ぼうぼうとなった飛行場跡に棒杭を墓標として立て、拝んだそうです。
トメさんは、いろいろな方に呼びかけし続け、遺族の方や生き残った方々や各関係者の御尽力によって「知覧特攻平和観音堂」ができあがったそうです。
毎日供養にでかけ、まだ皆が観音堂を今ほど顧みなかった頃から近所の子供たちを集め、お掃除や供養することを習慣とさせたそうです。
そのご褒美にと飴やお菓子を子供たちにあげて皆が集まるように、皆が手を合わせ合掌し供養してくれるようにと力を尽くしました。
御遺族や生き残られた方々が知覧を訪れたとき、身を寄せる所、泊まる所がないと困るだろうという気持ちから、隊員さんたちが当時訪れていた建物を戦後翌年買い取り、トメさんは旅館業を始めます。
それが「富屋旅館」の始まりです。
富屋旅館の離れにある当時特攻隊員さん達が訪れてた部屋で、平和の語り部として『戦争はね、あってはならないのですよ』と隊員さん達とのエピソードを交えながら語っていたそうです。
そんなある日、トメさんは「おばあちゃんの役目はもう終わったんだよ」と語り、「どうして?」とたずねると「おばあちゃんがもうお参りに行かなくても、全国からお参りに来て下さるようになったから、おばあちゃんはそれでいいんだよ」と。
手を合わせることで、亡き命の供養とともに一人一人に平和は託されたとの思いだったのではないでしょうか?
トメさんは平成4年4月22日、桜が散ってしまったあと、89歳でこの世を去りました。
新宿にある「薩摩おごじょ」の赤羽潤さんは鳥濱トメさんのお孫さんです。👇
https://www.facebook.com/jun.akabane.14

卓球選手 早田ひなの言葉
昨年8月開催したパリオリンピックの卓球で女子シングル銅メダル、女子団体で銀メダルを獲得した早田ひな選手。
利き腕の左手を負傷し苦しみながらも戦い抜いたその姿に、多くの人が感動を受けました。
その早田ひな選手の帰国後の記者会見発言が話題になりました。
「行きたい所としては、一つはアンパンマンミュージアムにポーチを作りに行きたいと思っているのと、後は鹿児島の特攻資料館に行って、生きている事をそして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることが当たり前じゃないっていうことを感じたいなと思って行ってみたいと思います」
とコメントしました。
今、若者たちの間でにわかに注目を集めているのが知覧特攻平和会館(南九州市)です。
昭和の戦争とは無縁の24歳の発言は反響を呼び、施設を知らなかった人にも、その存在を周知させた。
彼らの残した遺書や手紙などの遺品は戦後79年が経過してもその悲惨さを物語っています。
ご参考に👇
戦争の悲惨さを眼にすること
アイキャッチ写真は、
特攻隊員たちの憩いの場であった「富屋食堂」を、経営者であり「特攻の母」と慕われていた鳥濱トメさんの証言通り復元。
館内には特攻隊員たちの写真や遺品・手紙などが展示されています。
機会があれば、是非訪れてみたいところですね。
「平和国家」の礎となっている地です。

今日を大切に明るく元気に行きましょう!
お仕事の方、お疲れ様です。
いってらっしゃい!
