【反骨精神】持っていますか!

スキル

こんにちは 北の熱い講師 オッケーです!

昨日、プロ野球ドラフト会議について、投稿させていただきましたが、どうしても書きたいことがあったので、追記しますね。

反骨精神

反骨精神とは「世の中の不正や、しきたりなどに果敢に立ち向かっていこうとする気概や心持」という意味となっています。
反骨とは「不当な権力や世俗的風習に反抗する気概」のことで、骨という漢字には組織や物事の中心、核心といった意味もあるのでこの漢字が使われています。
気概とは「困難を乗り越えようとする強い気性」と解されています。

通常、「反骨精神を持っている。」と言った場合は、
自分より大きな組織、自分への批判に対して果敢に挑んでいく強い気持ちを持っている」というような意味で使われることが多いようですね。

オッケーの記憶の中で、反骨精神を持っていると思わせた、数少ない人物を紹介したいと思います。
小林 」氏です。
出来事が起きたのが、今から43年前ですから、50代の方しか記憶にないかもしれませんね。

空白の1日

1978年のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓選手の去就をめぐる一連の騒動がありました。‟空白の1日”といわれる出来事です。
1978年11月22日のドラフト会議の前日に、江川選手は巨人と契約を交わしました。

巨人と江川卓は相思相愛だった

高校、大学球界で「昭和の怪物」と言われ、プロ球界から熱望されていた剛腕・江川 卓 選手。
巨人とは相思相愛であり、作新学院高校時に阪急の指名を拒否して法政大学へ入学しました。そして、法大4年時のドラフトではクラウンライター(その後西武)に1位指名されると、それを拒否し、1年の“浪人生活”を選びました。
この時点では、世論は江川選手に同情的であったと思います。「浪人してまで行きたいなら巨人入団で良いのでは」と多くの方は思っていたと思います。
しかし、印象が覆ったのが、この日なのです。

巨人側の解釈

巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行しました。

当時の野球協約

ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の2日前までと期限設定されていました。
つまり、11月20日まではクラウンライター(その後西武)が交渉権保持となるわけです。当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」とあり、当時の江川選手は浪人中で社会人野球にも行かなかったため、野球協約の文言上では「ドラフト対象外」の人材だったのです。
巨人は、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川と自由に契約できると主張して入団契約を行ったのです。
契約の善意の死角盲点を、巨人が利用したということです。
当時、プロ野球が巨人中心にまわってたとはいえ、セントラル・リーグ会長はスポーツマンシップの公平性に欠けると判断し、巨人との契約を無効としました。

巨人猛反発

しかしこれに対して巨人が猛烈に反発し、その抗議として、翌22日のドラフト会議をボイコットします。

小林繁が阪神へトレード

22日のドラフト会議では、阪神タイガースが江川卓を指名するのですが、騒動がおさまらず。コミッショナー裁定で江川選手に対し、阪神と契約し、すぐに巨人にトレードに出すように提案することになりました。
阪神は交渉が長引くことを避けるために、巨人エースだった小林繁と交換することで合意しました。
世間は「悪役の江川、悲劇のヒーロー小林」と騒いだのです。

江川 卓 氏

巨人入団時に背番号19を提示されるも、さすがに小林繁の着けていた背番号なので拒否。
昭和30年生まれにちなみ、空いていた背番号30を着ける。
なお、阪神入団時の背番号は3である。
ちなみに、巨人の3番は長嶋でした。
阪神の反骨精神?であったかもしれませんね。
引退の年は、奇しくも、勝ち星は小林選手が引退した年と同じ13勝だった。
通算勝利数は小林選手の通算勝利数(139勝)より4勝下回りました。

小林 繁 氏

小林 繁 氏の略歴です。
島根県由良育英高校卒業(甲子園、米子東に負け出場できず)
大丸(現・大丸松坂屋百貨店)入社神戸店に勤務します。
同社の社会人野球チーム「全大丸」でプレーすることとなります。
1971年ドラフトで巨人6位で指名し、考慮の上、翌年に入団します。
背番号は入団時は「40」番、翌年から「19」番を着ける。
76年は18勝を挙げ、エースピッチャーとして活躍します。
78年シーズン終了後の ‟空白の1日”に巻き込まれる。
翌年の79年、巨人戦8勝を含む22勝をあげるのです。
防御率2.89という成績を挙げ、2年ぶりに沢村賞及びベストナインを獲得します。
移籍2年目の1980年8月16日、後楽園球場で行われた巨人戦で初めて江川選手と投げ合うことになります。3失点で完投した江川選手に対し小林選手は5回4失点で降板、試合は巨人が勝利し江川選手が勝利投手となっています。
引退後はスポーツキャスターや参院選出馬など、ユニホームを脱いでも注目を集めました。
97年から近鉄で投手コーチを務め、01年にリーグ制覇。
韓国プロ野球SKのコーチも務め、2009年日本ハムの2軍投手コーチとして日本球界に復帰、日ハムの平沼選手(敦賀気比高校甲子園優勝投手)を指導し、2010年春からは1軍コーチとして、パ・リーグの頂点を目指すはずだったのです。
その矢先の1月17日に心筋梗塞による心不全で享年57歳でなくなります。

和解

2007年の秋、博報堂が日本酒‟黄桜”のCMを手掛けることになり、江川氏と小林氏が日本酒を飲みながら対談する企画が持ち上がります。
当初小林氏は「いまさらコマーシャルに出るつもりはない」「俺がやると言っても、江川君はどうなの?断ると思うよ」としたが、江川氏の「小林さんさえよければやりたい」という意向を聞いて承諾したと謂われています。
事前打合せ無しのまま対談収録がスタートします。
「本当に長い間、申し訳ございませんでした」と江川氏が乾杯前に謝罪します。
それに対し小林氏は「謝ることないじゃん!」と返答し、「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな。二人ともしんどかった」と江川氏に語り掛けます。
小林氏は本編で盃を傾けながら「今回のCM出演で、ホッとする時間を作って頂けた。残りの人生が少し違ったものになるんじゃないかな」と話しをしています。
是非、「空白の1日」で検索してみてください。

いかがでしょうか!

投手としての真骨頂

小林 繁選手は、 移籍してのシーズンを、22勝、特記すべきは、対巨人戦は8戦全勝だった?と記憶しています。
スター軍団を相手に、ひとりの投手の、毅然として立ちはだかる姿がありました。
オッケーは、「巨人・大鵬・卵焼き」世代です。
ただ、この時ばかりは、阪神小林を応援していたと記憶しています。

こだわり

男気、気概、気骨ある、意地、恩返し、負けられない、などなど、いろいろな言葉で表現出来そうなこと。皆さんにも、起きますよね!
その時の貴方の心の持ち様は、どうですか?

一つ言うなら、「信を通せ!心を折るな!」ですかね。

さぁ!

今日を明るく元気に行きましょう!

いってらっしゃい!